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最初に聞き取れたのは、耳障りな電子音。それが机の上からのものだとわかるまでに、四肢に血が通う疼きと、まばゆく暖かい光が、ゆっくりと意識をこじ開けていく。払暁とも薄暮ともつかぬ空模様が瞼の裏をちらつき、レールの継ぎ目を叩く電車の音が胸を締め付けたのは、1秒にも満たない間だけだった。
せんせい、と耳を打つ声に、もったりと重たい瞼をこじ開ける。視界を埋め尽くす白い光に、返事ともつかぬ呻き声が口からこぼれ落ちる。首をめりめりと動かして光を避けながら、目の前の机に広げたままの資料と、その横に置かれたタブレットが画面を明滅させているのを見て取った。
寝落ちたな、と肩が落ちる。慣れない書類仕事と取っ組み合ったのがいけなかったらしい。腰を労わりながら立ち上がり、ピコンピコンと元気にアラームを飛ばすタブレット──〈シッテムの箱〉を手に取る。『先生!』と可愛らしい声を上げる画面を指でつついて、「おはよう、アロナ」と挨拶。口を開けっ放しで寝たものか、我ながら随分とガラガラな声だった。
『おそようございます、先生。ただいまの時刻は午前9時です』
ご挨拶じゃないか、と画面右上の時計を確認する。午前8時58分、充電は95%。「まだ8時台じゃないか」と笑うと、画面に映る少女──アロナは抗議するように頬を膨らませ、結わえたリボンを大きく鳴らした。アラームと同じ電子音だ。
『お顔を洗ったら9時ですよ。しーっかりログに書いておきますからね』
げ、と笑顔が固まる。勤務開始時間も終了時間も決まっていないと言うから、すっかり油断していた。メガネがお似合いのクールビューティー──七神リンの顔立ちが脳裏をよぎる。昨日まさにこの部屋で、これからの仕事向きの説明をしてくれたのが彼女だ。厳格にして怜悧、白と青の連邦生徒会制服をかっちりと着込んだ、取り付く島もない美人さん。怒らせちゃいけない、と肝に銘じたのを思い出す。
こうしちゃいられない。バタバタと椅子に座り直して、キーボードを連打してスリープから回復させながら、「今日の予定は?」と取り澄ました声を上げる。
『はいっ。9時30分に来客予定がありますよ!』
「なんだって!?」
『身支度と、部屋のお片付けもお忘れなく!』
思わず引っ掴むも時すでに遅し。してやったり、という笑い声を残して〈箱〉の画面は消灯してしまう。バッテリー切れ? いや、意地悪だ。真っ暗になった画面に、すっかり焦った自分の顔が映り込んでいる。寝癖がぴょんぴょんと立って、心なしか顔も脂でテカテカしているように見える。ガバっと再び仰いだ時計に8時59分の時間を認めて、私は一目散に洗面室に駆け出した。
まどろみに見た夢のことなどは、いまはもう思い出せそうになかった。
※
編上靴の不躾な足音が、無人の街区にこだまするのがわかった。ゴツゴツという硬質な音が鳴るたびに、徹夜に傷んだ身体が前へ進んでいく。出掛けに飲んできた強いコーヒーも、ここに来る途中にいくつも噛み砕いてきたミントタブレットも、ついに眠気を完全に追い出すまでには至らなかったらしい。他人事のようにそう分析して、桜井ユミは欠伸を噛み殺した顔を頭上に向けた。
憎たらしい青空の下、判で押したようなオフィスが建ち並ぶ中、階段状になった特異な意匠のビルがひとつ。一見すると変わったデザインというだけのありふれたビルでも、見れば見るほど厳重なセキュリティが講じられているとわかる。反射率の高い窓ガラス、3階より上に作り付けられた通風孔。足元からは見えないが、階段の各段には緊急時用のヘリポートと、パラボラアンテナや各種通信設備も鈴なりになっている。9時20分を刻む街時計を薮睨みして、ユミは独立連邦捜査部〈シャーレ〉の庁舎へ足を踏み入れた。
「個人・集団の学習権を侵害する事態」に対して、「連邦生徒会長が認める範囲内」で「超法規的対処活動」が認められている場所。数千もの学園が名を連ねる学園都市〈キヴォトス〉を預かる連邦生徒会が、各学園自治区の軛に業を煮やして作り出した非常事態救済機関。七神リン連邦生徒会長『代行』──尊敬する先輩にして上司は、そんな言葉でこのビルと、ここに収まる組織を説明していた。
セキュリティゲートを連邦生徒会の身分証明証で開き、最近改築されたばかりのエントランスを足早に突っ切って、エレベーターホールへ。新築特有の壁紙の匂いさえ漂っていることに、訳もなく辟易してしまう。徹夜の毒が思ったより回っているらしい。ボタンを押し込んだユミは、エレベーターが到着するまでの間、ひたすら瞳を閉じて身体を休ませることにした。
身体から力を抜き、情報の知覚をすべて遮断する。できるだけ脳を休ませてやるための知恵だった。ベッドで眠るほどには回復できなくとも、やらないよりはマシ。体力も気力も心の誤魔化し方ひとつということを、彼女は随分前に学んでいた。
焦っちゃいかんよ、とユミは胸の内で自分を宥める。焦りは判断を雑にし、細かなことを見逃しもする。自分だけなら水でも引っ被ればいいが、他人相手ともなるとそうはいかず、より冷静な自分を見せることで代えるしかない。連邦生徒会でそれなりの高位につく身として、冷や汗ひとつが比喩でなく人を殺すことがあることを、ユミは知悉していた。
思えば、こうして意識してゆっくりする時間は、ここ数週間取れていなかった。朝から朝までジャンジャン鳴り続けるスマホ。さほど気絶と変わらない睡眠時間すらぶった切られ、移動中も食事中も仕事、仕事、仕事。デスクに積み上げた書類を枕にする日々が続けば、心がささくれもする。
ここの立ち上げが軌道に乗ったのと時を同じくして、突如失踪した連邦生徒会長。彼女を捜索するのに貴重な手勢を数週間にわたって費やし、連邦生徒会お膝元の〈D.U.〉にまでテロの手が伸びるのを看過したのは、ひとえに連邦の失態だ。急いては事を仕損じるの典型で、挙げ句、肝心の連邦生徒会長は見つからずじまい。せめて捜索の初期態勢に関われていれば、引き際はもう少しマシだったろうに……。
ポン、という音が鳴る頃には、色褪せた視界には若干の彩りが戻っていた。開いたカゴに乗り、シャーレ執務室のあるフロアの階数を押す。その拍子に、左手から提げたアタッシェケースの存在を思い出して、せっかく取り戻した気力がするすると抜けていくのを感じた。
ふたつのダイヤルロックに、持ち手と繋がれた手錠。いかにも機密文書を運んでいますよ、と言いたげなアタッシェケースは、リン先輩の命令で持たされたものだった。彼女に言わせれば、中身を問わず全てを警戒していれば、狙う相手もどれを狙えばいいかわからなくなる、という理屈らしい。中身を熟知しているユミからすれば過剰警戒、逆効果も甚だしいというのが偽らざる本音だったが、命令とあらば致し方ない。
どだい、せせこましくアタッシェケースひとつを狙うような小悪党相手に遅れを取る私ではないのだし。懐に呑んだ45口径を意識する頃には、階数表示はシャーレ執務室の収まるフロアを指していた。
戸が開いた途端、エントランスとは違う気配に心臓が跳ねる。〈先生〉、シャーレの顧問。あのリン先輩をして誠実な人と言わしめた大人が、この奥にいる。そう実感した途端に、首筋がこわばり、喉が干上がる感覚がユミを支配したのだった。
この街に住まう学生たちに対して、大人たちの集団が寛容だった試しはない。大人たちの干渉から各学園を保護することが連邦生徒会の第一原則であり、連邦生徒会の歴史はそのまま大人たちとの政治紛争の歴史でもある。その歴史を見聞きし、実際に大人たちの信じられない無法ぶりを見てもきたユミにとって、大人とは良くて非好意的中立者であり、大抵はより悪い相手の代名詞だった。
彼らを相手に回してそこそこ以上に渡り合ってきたが故に、正体不明の大人との連絡窓口を引き受けることになってしまったのだから、世の中何が災いするかわからない。人並みに怯え、嘆き、不平を鳴らす内心をよそに、律動的な歩調は緩むことなく身体を前へ進めてしまう。据え付けられたばかりの真新しいガラス戸が、白濁したユミの思考を否応なく現実へ引き戻した。
いいさ、と開き直って、ユミは右手を拳の形に握る。結局は拒まなかったアタッシェケース同様、仕事なら大人への挨拶だって無難にこなしてみせる。
コン、コン、コン。戸枠を軽く叩く。ガラス越しに、見慣れぬ大人の姿がこちらを向くのがわかった。「どうぞ」という声に退路を断たれれば、進む方向は前しかない。
鬼が出るか蛇が出るか。アタッシェケースの持ち手に手汗の不快を感じながら、ユミは扉を押し開けた。
※
湯気の立つコーヒーカップをひとつ、「召し上がれ」と向かいの席に置く。
「いただきます」
如才なく出てきた言葉に気を良くして、私も温かいコーヒーに口をつける。うん、やっぱりインスタントには出せない味ってあるよね。ミルの片付けは一旦気にしないことにして、いまは舌の上を転がるまろやかな苦みと酸味を味わうことにする。
「……美味しい、です」
瞠った目は、その言葉が本音だと如実に示していた。そう、この銘柄は、ミルクを一匙垂らすだけで舌触りが格段に優しくなるのだ。「よかった」と微笑むと、安心したような彼女とちょうど目があった。ふふん、美味しかろう。シャーレの給湯室に置かれていた豆は、昨晩ひと通り試してある。誰が用意してくれたのかまではわからないけれど、どれも私好みの味を引き出しやすい、素直な銘柄揃いだった。だから、書類仕事のお供に一杯ずつ味見する贅沢くらいは、大人の特権として許してほしい。執務机に置いたシッテムの箱へ視線をやると、充電コネクタのリングが、いかにも不機嫌そうに赤く点滅していた。
だから変な寝落ち方するんですよ、だって?
はいはい、反省しています。シャワーが間に合ってよかった、本当に。
ともあれ、コーヒーを呼び水にする作戦はうまくいった。彼女──桜井ユミは勢い込んで、「どこの銘柄なんですか?」なんて言葉を投げてくる。ヒノム産の云々と答えながら、ユミの緊張が無事にほぐれてくれたことに安堵する。
「ヒノムというと、ゲヘナコーヒーですか。もっとこう、酸味勝負の銘柄が多いイメージでしたけど」
「他の豆は結構そうだったかなあ。これだけ、浅煎りと深煎りが両方あったんだ」
つい細挽きしてやりたくなって、とミルを回す仕草をする。対面でプラチナブルーの髪がくすくすと揺れる。「試してみます」とこれまた如才ない受け答えの一瞬、カップに伏せた視線がアタッシェケースに向いたのを、私は見逃さなかった。
あぶない、あぶない。「それが本題かな」と水を向けてやると、彼女は安心したようにひとつ頷いた。
「七神会長代行から、先生宛の文書を何点か預かっていまして」
追加で、ね。胸のうちにそう付け足す。リンが昨日手ずから積み上げた書類を処理するだけで、コーヒーを何杯必要としたのだったか。そこに、アタッシェケースいっぱいの書類が追加されるというわけ。流れるような所作で腕時計に時間を確かめたユミは、「9時45分」と呟くと、そのままケースの鍵を開けてしまう。
果たせるかな、「まずは、諸々の譲渡契約書類ですね」と華奢な手が掴み上げたのは、気が遠くなる分量の紙が挟まったリングファイルだった。
「青表紙は携行装備とその弾薬類に関して、赤表紙は各種車両等と燃料類に関してです。ゆくゆくはシャーレが独自に調達する必要が生じるとは思いますが、ひとまずは連邦生徒会から譲渡の形で提供いたします。その契約書をいただく必要が──」
ぐえ、と歪んだ表情を見られたものか、ユミが明確に苦笑する。「ほとんどは保存用ですよ」となだめる声。
「譲渡契約書と引渡確認書は、確認後に2部サインいただくだけで大丈夫です。お手間は取らせません」
確認。いかにも楽そうだ。姿勢がぐいと前のめりになる。
「ただ、それ以外にも結構サインが必要なのと、シャーレ側で提出いただく書類がありまして」
これだ。肩ががくりと落ちる。上げて落とす、いい手だ。「届出と検査については、どうしても……」と、上目遣いでユミが私を見る。
不安がらせるのは違う、よね? 「はい、わかりました」と大げさにそれを受け取る。
「お手数をおかけします。まとめた資料もつけてありますので、基本はそれに沿って進めていただければ。連絡先も残してまいりますので、何かありましたらこちらに」
懐から紙片を取り出して、ファイルのポケットへするりと差し込んでしまう。安心したような、ひと仕事終えたような、さばけた笑顔だった。制服の青よりも明るい瞳も、どこか緩んでみえる。「それと……」と続いた言葉に、こちらは逆に構えてしまった。
「シャーレと連邦生徒会の今後の連絡を円滑にするために、連絡官をひとり置くことになりました。昨日急遽決まったので、先生にはお伝えできていなかったかと思いますが」
書類仕事じゃないとわかって、ほっと力が抜けていくのがわかる。カップに残ったコーヒーを口に含む余裕も、なんとか戻ってきた。だから、すらりと立ち上がった「あらためて申告します」という澄んだ声も、唐突さの割に正面から聞き取れていたと思う。
「この度、連邦生徒会統括室・独立連邦捜査部連絡官を兼任することとなりました、桜井ユミ行政官です。本業は連邦安全保障担当ですので、いろいろと分野が隣接すると思いますが……何卒よろしくお願いいたします。先生」
堂に入った一礼と、そのあとに浮かんだ柔らかな笑顔。いつの間にかこちらが懐柔されていたと、この段になって思い知るとは。リンちゃんが仕事を任せるわけだな……という感想だけを胸に留めて、私は「よろしくね」と余裕の笑顔で迎えた。