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 書類の量がおかしい。
 シャーレに流れ込む機材や物資はひと段落したから、仕事を選ぶための時間を取れるはずなのに、一向に暇にならない。かろうじて寝る時間が取れるくらいだ。
 一枚一枚ちんたら時間をかけて読んでいるのかって? うーん、そうかもしれない。数をこなしてナンボの仕事ではあっても、大人としては読み流すわけにも、読み飛ばすわけにもいかない書類が、私の執務室には山積みになっている。そのうちの一枚、ワイルドハント芸術学院は熱帯魚鑑賞部からのお手紙をご紹介しよう──
『当部部室にて、雨天時の雨漏りが頻発しています。特に水槽直上からの浸水が続いており、飼育環境に大きな影響が出ています。本学施設課には相談中ですが進展が見られず、連邦生徒会にて修繕対応をご検討いただけますようお願いいたします』
 うん、皆の言いたいことはわかります。『非所掌』の山の上に手紙を載せて、ひとつ息をつく。各校の施設管理権、つまり主権が絡む問題です。しかもこの書きようだと、きっと生徒会に話を通さずに出してきているんだろう。魚だけじゃなく、手紙を書いた子たちの健康も心配だ。もし問題がエスカレーションしたら、連邦生徒会の仕事ではなく、シャーレの仕事になるかもしれない。ぐいと伸びをしながら、脳裏に刻んでおくことにする。
 そう、ここにうず高く積まれているのは、いずれも連邦生徒会宛の投書だ。わかるかな、連邦生徒会宛。シャーレ宛ではない。この違いは、ユミに口酸っぱく叩き込まれた。
 敬愛すべき我らがシャーレ連絡官・桜井ユミに曰く、「キヴォトス各所の混乱を連邦生徒会の責任として、苦情めいた投書が集中しているんです」とのことだ。
「連邦生徒会長の失踪からこっち、連邦生徒会が各校に受託させていた事務が突っ返される事例が頻発していましてね。サンクトゥムタワーから各自治区の連邦大使館に人をやっている関係で、投書を捌く人手すら不足している有り様です」
 確かに、赴任初日に訪れたサンクトゥムタワーも、殺伐具合の割には閑散としていたような覚えがある。あの人の行方を追って、と、リンちゃんは言っていた気がするけれど……。
「連邦生徒会長を捜索している、というのはあくまでも建前。メンツを保つための言い訳にすぎません」
「厳しいね」
「そうですか? メンツは大事ですよ」
 話に混ぜてもらえなくなりますから、とおどける彼女の言葉には、妙な実感がこもっているように聞こえた。
「だからこうして、まずはシャーレのメンツを作ろうとしているわけです。大きな権限の割に謎の組織という見方は、立役者たる連邦の中にこそ根強いですから」
 小さな仕事からコツコツと、です。形のよい眉を笑みの形に寄せて、ユミは追加の箱を机に載せてしまう。どすん、という音は私の肩にものしかかるのだ。「追加を持ってきますね」という声はダメ押しにすらならない。
「今日はあと5箱。それでひと区切りつきます」
 おいおい、ひと箱に何通入ってると思ってるんだ。思わずうめき声をあげると、ユミの笑顔が「序の口ですよ」と冷たい圧を帯びる。こういう顔を見ると、リンちゃんの後輩なんだな、とわかる。
「まだ物読みだけじゃないですか。シャーレが本格稼働し始めたら、ここに書類作成だって加わるんですからね」
 無慈悲なひと言で、ついに撃沈。背もたれにのけぞった私の目の前に、ぱんぱんに紙の束が詰まった箱が置かれる。切れ長の目は、今度は「私も引き続きお手伝いしますから」と励ますような色にすり替わっていた。
「5箱処理し終えたら、とっておきのお茶とお菓子で打ち上げです。……他所の仕事なんですから、それくらいしてもバチは当たらないでしょう」
 半分は自分に言い聞かせるような声音を鉄面皮に言い切って、ユミは自分の席に戻ってしまう。私の様子を窺いやすい、斜向かいの席だ。
 こう見ると仕事ぶりを観察されているような気分になるけれど、ユミの立場からすれば、それも本音なのだと思う。外から来た不詳の大人なんて、数日仕事をしたくらいで信用できるわけがない。それを表に出さず、一緒にうまくやっていこうとするユミは、なるほど就くべくして連絡官の立場に就いたのだ。
 大人なき社会で大人をやらなければならなかった生徒たちのために、私はここにいる。ここで投げ出す──投げ出せる私なら、サンクトゥムタワーの制御権を回復したりはしなかった。
 いつの間にか〈シッテムの箱〉に向いていた視線を手元に戻す。コツコツと、とユミの言葉を思い出しながら、私の手は新しい投書を掴み取った。

 ※

 ちん、という電子音に、引き剥がすように書類から顔を上げる。抗議の悲鳴をあげる肩と腰をなだめながら、いつの間にか射し込んでいた朝日を眩しく見上げる。窓の外の景色は朝のそれになっていて、斜向かいの席には空っぽの椅子だけが虚しく残っていた。仕事に没頭するとこれだ、と苦った私は、まずは身体を慎重にほぐすことにした。
 骨と骨の間から連続して小気味よい音が響く。凝りが取れていくむず痒さに、背筋がぶるりと震える。時折ぴしりと走る首筋の痛みは……まあ、時間が癒やしてくれるだろう。ついでに脚も伸ばしてやりながら、夜を徹して貼り付いていた机の上を眺める。
 先ほどまで手をつけていた書類が、どうやら最後の一枚だったらしい。おやまあ。どうやら私は5箱すべてを処理してのけたようだ。机の上に積まれていたはずの箱はすべて床に置かれ、どれも底を朝日に向けていた。『所掌対応』『準所掌対応』『非所掌』の3つに振り分けられた投書の山は、いずれはサンクトゥムタワーに送り返すのだそうだ。
 じゃあなぜ一旦シャーレに持ち込んだのかって? それはね、シャーレという組織がこのビルで仕事を始めたことを目立たせる必要があったからです。人や車、物資の出入りは目立つ。赴任初日に遭遇して、共に戦場を駆け抜けたあの子たちの学校──ミレニアムサイエンススクール、ゲヘナ学園、トリニティ総合学園のトップ層は、それぞれこのビルを監視する人員を立てているに違いない。連邦生徒会が大人を連れ込んで、起死回生の一手を探っている。そんな報告が上がれば、期待度の大小にかかわらず、とりあえず監視の手立てを講じておくのが政治の所作だ。
 白状すると、すべてユミから聞いたことだ。世話になりっぱなしだな、という自覚はある。実際、ユミが段取ってくれたこの仕事のおかげで、キヴォトスに潜む問題についてある程度の知識を得られた。生徒たちがどのように困っていて、どんな助けを求めているのか。十分に、とは言わないまでも、あるのとないのとでは大違いだ。
 さて、まずは何から取り組むべきか。具体的な事柄が脳裏を占めるより先に、「おはようございます」という声が背中へかけられる。
「もう朝の5時ですよ、先生」
 白いマグカップが横から差し出され、思わずそのまま受け取ってしまう。ほんのり温かいミルクティーだった。甘く品の良い香りが、湯気とともに微かに立ち昇ってくる。「あ、ありがとう」と慌てて口を開いたときには、ユミはもう隣の席に腰を下ろし、自分のカップに口をつけてしまっていた。
 満足気にうなずいてカップを机に置き、いま視線に気づいたとばかりに「召し上がれ?」とこちらへ首を傾げてくる。言われるがまま啜ると、優しい口当たりが乾いた身体の奥へじんわりと染み渡っていく。
「……おいしい」
 やさしい甘味で舌が滑る。ありがとうが先だろうとか、もうちょっと気の利いたことをとか、そんな見栄は二口目で完全に溶け切ってしまった。大人だっておいしいものには勝てないのです。「お口に合いましたようで」とクスクス笑うユミは、どこか胸を撫で下ろしているように見えた。
「コーヒーのお返しになりましたかね?」
「これじゃもらいすぎだよ……びっくりした」
 力がすっぽ抜けた身体の隅々まで、再び温かさが満たされていくのを感じる。少し紅茶が強めなのが、また憎い。疲れたままでは居させてくれないというわけだ。
 ええい、ままよ。三口目を啜る。「いかがでした?」と投書の収まった箱を顎で示すユミに、私のカップを気にするそぶりはなくなっていた。
「あの山が、生徒たちの生の声というやつです。連邦生徒会に頼れる範囲での投書ですから、キヴォトス全体というには語弊がありますが」
 少し遠い目をしている。彼女には、あの山から漏れた声が見えているのだろう。
 ブラックマーケットとかいう巨大闇市。学校から追い出され、奪うことでしか生活できない子どもたち。暴利を貪り、子どもを食い物にする企業集団……。投書にも幾つか、その片鱗はあったように思う。
「遅かれ早かれ、ここにも助けを求める声が舞い込んできます。連邦が救済するには馴染まないような小さな事柄から、公に介入すれば主権問題になりかねない問題まで……事によっては、先生ご自身が直接的な行動に乗り出す必要も生じるでしょう」
 そう。だからこそ、ユミはこの仕事を持ってきてくれた。独立連邦捜査部という一見矛盾した名前であっても、生徒たちのための組織というメンツが立てば、そこには自ずと期待が宿るというわけだ。
 喉を流れ落ちたはずの紅茶の香りが、ぷんと内側に込み上げてくる。
「身内の恥を晒すようで恐縮ですが、連邦生徒会の現有リソースでは、それら問題へ十全に対処することは叶いません。ひとつひとつは小さな問題であっても、積み重なれば相互に関係を持ち始め、解消に要する時間を爆発的に増大させる。わかってはいても、我々はそれらに干渉せずにいました。中途半端な介入もまた、事態を混乱させることに繋がるからです」
 手にしたカップの水面に目を落としながら、ユミは決然と言い切った。
 力が及ばないから、手をつけない。それはそれで合理的であり、責任の負い方のひとつだ。しかし、その判断をくだし、組織の隅々にまで徹底させられる者が、果たしてどれだけいるものだろう。どれだけの覚悟を要するものだろう。今の私には──組織を持たない私には、考えてもわからない領域の話にちがいない。
 連邦生徒会は、それをやっているのだ。その覚悟を責める言葉を、私は持ち合わせていない。語尾に浮いた僅かな震えをケアする言葉も。
「先生には、まずその現状を見ていただきたかった。言い訳めいて聞こえるかもしれませんが、これは私の本心です。現下の連邦生徒会に許された最善を尽くしているのだと理解いただいて、その穴を埋めていただきたいと……」
 消え入るような声には、悔悟の念が浮いていた。立ち上がったばかりの独立組織に、出自も謎な大人に助けを乞う無様に……ではない。
 最善と言い切り、それを前提に走り続けながら、どこか後ろを顧みる声。もっとよい選択ができたのではないか、もっと別の考え方があったのではないか。穴が空くほど手元を見つめる彼女の目は、たらればに取り憑かれながらも、まだ諦めていないように見えた。
 なら、まだ取り返せる。青春に後悔は似合わない。私はカップを思い切り飲み干すと、悩める生徒へ椅子ごと向き直る。「大丈夫」と明るく言い切った私の顔に、ユミの当惑した視線が突き刺さる。
「ユミは、みんなのことを考えて仕事をしている。みんなわかっているはずだよ。キヴォトスに来て数日の私にだって、わかるんだから」
 ぽかん、とした視線に笑顔が映るようにして、私は「大丈夫」と繰り返す。そうとしか言えない自分がもどかしいけれど、賢しらにあげつらって何になる? 彼女に必要なのは、寄りかかりたいときに寄りかかれる背もたれだ。背もたれは、余計なことは喋らない。
「混乱して、焦っているかもしれないけれど。自分たちのことだけで精いっぱい、って思っちゃうかもしれないけれど。いつものユミを知っているから協力してくれる人たちも、きっといるはずだから」
 この書類の山を、わざわざサンクトゥムタワーから運び出してくれた子たちがいるのだろう。30キロ超の道のりをトラックで運んでくれた子もいれば、ここで執務室まで一緒に上げてくれた子もいる。ユミがすべてひとりでやったのではないし、彼女たちが私を助けようとしたのでもない。彼女たちは、ユミを助けようと名乗りを上げたのだ。
 だから──
「──自分とみんなの頑張りを、信じてあげて」
 瞠られた目は、すぐに取り澄ました笑顔で隠れてしまう。「お上手ですこと」と混ぜっ返すような言葉には、皮肉もなければ反感もない。少しの気恥ずかしさと、目の当たりにすると面映ゆいほどの感謝の色が、目の前でほころんでいく。
「そこまで言われてしまうと、しおらしく居られないじゃないですか」
「それを聞いて安心したよ。ユミは小悪魔でいるのが似合ってる」
「あら。こんな真面目な学生を捕まえて、随分なご挨拶ですね」
 ついに相好を崩したユミが、声を上げて笑い始める。大人びた顔立ちの彼女だけど、笑顔は年相応に可愛らしいものだった。「いいでしょう」と微笑んだ彼女も、私に倣ってミルクティーを一気飲みしてしまう。
「先生は子どもたちの知恵袋。私は先生に悪知恵を吹き込む悪魔」
「小悪魔、って言ったんだけど……」
「悪魔、のほうが好みです。大人っぽいでしょう?」
 それこそ小悪魔じみた台詞を言ってのけて、ユミはふいと顔を背ける。「お先に失礼します」と立ち上がった頬が赤らんでいたのは、差し込んだ日の光のせいばかりではあるまい。
「先生も、今日くらいは家でお休みください。せっかくの新居なのに使わないのでは、もったいないですから」
 捨て台詞のようにこちらを気遣って、白いスカートの裾が廊下への戸口に消えていく。はいはい、わかってますよ。手を振って彼女を見送った私は、その足音が遠ざかっていくのを確認してから、おもむろに〈シッテムの箱〉を持ち上げた。
 押し花のように挟まった封筒は、いつの間にかそこにあったものだった。シンプルな体裁に、丸まっちい手書きの文字。【連邦捜査部の先生へ】と書かれた宛名は、間違いなく私を指していた。これまで山と見てきた連邦生徒会宛ではなく、正真正銘、私宛のSOS。初めての仕事に、字義どおりに総毛立つのを堪えながら、オープナーで切り開ける。中に収まった便箋も市販のものらしく、少なくとも危険な要素はないように思えた。
 便箋とシッテムの箱を手に取り、立ち上がる。ポキポキと鳴る関節に渋面を作りながら、朝日が差し込む一番明るい場所へ、ふらふらと歩いていく。分厚い窓に額を預け、冷たさに気分よく呻きつつ、視線は眼下の街を自然と追っていた。
 この街を、この街に住まう子どもたちを負う実感。朝までかかった仕事で私が得たものは、畢竟すればそれだけだ。眠気に塗りつぶされつつある頭では、投書に書かれた細かな情報を把握し続けることなど叶わない。それでも、その投書一枚一枚に込められた子どもたちの声が、この街に澱を作り続けているのはわかった。
 この街が作り出した澱が、この手紙の形を取って私の前に現れたのなら、私は迷わず応えることを選ぶ。このキヴォトスという街については、ほとんど何も知らないままだけど。アロナの案内がなければ自宅に帰ることすら覚束ないし、仕事もユミや連邦生徒会の皆に手伝ってもらってばかりだけど、そんなことはどうだっていい。私は大人であり、選択をする者だ。なるべく公正に、でも機械的にはなりすぎず……いろんな付帯条件はつくけれど、やることはシンプル。選択し、それを背負う。私はすでに選択をしてここにいるのであり、これからも選択をし続けるんだ。
 だから、家に帰るのは、これを読んでからでも遅くない。すっかり白んだ空と動き始める街に言い訳をして、私は「アロナ」と声を掛ける。眠たげに抗議の唸り声を上げるタブレットに苦笑しながら、折り目のついた便箋をそっと開くと、やはり封筒と同じ筆致が並んでいた。
 手元に差し込んだ朝日が、〈アビドス高等学校〉という文字を浮き上がらせているように見えた。