004


 連邦生徒会長失踪後、もぬけの殻になっていたサンクトゥムタワーにも、ようやく人の気配が戻ってきつつあった。
 各自治区の大使館に応援要員を送り出し、学園都市の四方を走り回らせてなお、統括室と行政委員会を擁する連邦生徒会の人員規模はキヴォトス随一を誇る。連邦生徒会長の失踪は、巨体であるが故の脆弱性を露呈させた。連邦生徒会長とともに失われたサンクトゥムタワーの管理者権限。連邦生徒会をして周辺に点在する予備施設への退避を強いたあの状況は、想定外としか言いようのない事態だった。
 タワーを再び連邦生徒会の制御下に取り戻し、連邦行政の立て直しの機会を与えてくれたのが、他ならぬ先生だ。その意味で、連邦生徒会はすでにシャーレへ大きな借りを作ってしまっている。その先生が、いまアビドスに向かっている。因縁と陰謀の渦巻く砂漠に。
 エレベーターから降りて統括室のフロアを横切る頃には、後ろに追いすがる者は誰もいなくなっていた。
 ヴァルキューレ警察学校から派遣されたSPふたりからボディチェックと武器検査を受け、目の前に割って入ろうとする統括室のヒラ役員をひと睨みで追い散らしながら、会議室前へ。重厚な樫の扉には『中央会議室』とあり、使用中の赤文字が掲げられている。知ってるよ、と一息に扉を押し開けると、会議室中の視線がユミの満身に突き刺さった。
「……桜井行政官、あなたに陪席する権利はないはずよ」
 扇喜アオイ財務室長の咎める声を無視し、ずかずかと室内へ。こういう場では、涼しい顔を装うのにも若干のコツが必要で、ユミはそれを熟知していた。物見遊山の色を隠さない体育室長、珍事に戸惑う文化室長、我関せずと資料に目を戻す人材資源室長。居並ぶ室長級の列席者を横目に大股で歩き切り、対岸でついに立ち上がったアオイの体躯を視界に収めながら、ユミは傲然と上座──連邦生徒会長代行・七神リン首席行政官へ向き合った。
 何をやっているんだ、私は。ここに至って冷静になった頭が踵を返す前に「会議中失礼します」と切り出して、黒髪から突き出た耳元へ口を寄せる。
「〈デザートウォール〉の件で、お耳に入れたいことが」
 細いフレームのメガネ越しに、双貌の鋭い光がまっすぐに刺し貫いてくる。物言いたげに息を吸い込んだアオイを手を掲げて制止して、リンは「どちらですか」とひと言だけ呟いた。
「サブジェクトです」
「キーロは」
「調査中です」
 わかりました、とユミにだけ聞こえるように小声で答えて、リンは部下を庇うように立ち上がる。「皆さん」と有無を言わせない口調で機先を制した彼女は、薄ら寒いほど硬質な微笑みを浮かべる。
「今朝は早くから報告をありがとうございました。ここでひと区切りとします」
 女房役の岩櫃アユム調停室長が立ち上がり、背に負った黒い翼でそれとなく衆目からユミを隠す。それがいい幕引きになったらしく、室長たちが三々五々と出ていく物音と人いきれが会議室を押し包み、扉が再び閉められる音が最後に響いた。立ち上がったままのアオイが再び椅子に戻り、「やんちゃをしますね」という別の声が朗々と室内に弾む。
 行政全権を代行として掌握するリンがこちらを睥睨する反対側では、連邦外交政策を司るアユムが大きな翼を背に佇む姿がある。連邦生徒会の大番頭たるアオイは、眉根を寄せたまま動かない。そして、連邦防衛政策全般を一手に取り仕切る防衛室長が、面白いものを見るようにユミへ視線を向けていた。
 ここに統括室統括官房長と法制局長が揃えば、連邦安全保障会議の体裁が整うことになる。〈デザートウォール〉のひと言が効いた結果だったが、ここからは正真正銘自分の口八丁が試される局面だ。「新参者が耳を貸してもらうには、それなりの工夫がね」とおどけながら、桃髪の下に潜む鋭い目へ向かって視線を返す。
「情報は鮮度が第一。あなたから教わったことですよ、不知火カヤ室長」
「次は手心の加え方を教えて差し上げましょう」
 まんまと緊張をほぐされたことに気づいて、思わず渋面が浮いて出る。彼女たちにかかれば、私はまだまだひよっこらしい。修行が足らないな、と内心にひとりごちたユミに、「〈デザートウォール〉の件とのことですが」と冷たい声が降りかかる。
「関係者は揃えました。シャーレの先生が関係しているというのは?」
 統括室長でもあるリンが、瞳の色にふさわしい冷たい視線をくれている。殊更に冷静であろうとするときの悪い癖だ。路傍の石を見るにももう少し情はあろうという鋭利な物腰が、部下を遠ざけてしまう。「結論から申しますと」と間をつなぐ言葉を押し出しながら、ユミはスマートフォンを手に取って、モモトークの画面を再び呼び出した。
「シャーレの先生がアビドス自治区に入られます」
 ユミ以外の四人が、びしりと音を立てて凍りつく。目を見開いて立ち上がるリン、机に手をついて首を横に振るアユム。思わずといった風情でこちらに一歩詰め寄るアオイの後ろで、カヤの表情はすっかり抜け落ちていた。
 それぞれの脳裏に衝撃が行き渡った頃合いを見計らって、「今朝、先生から報告がありました」と経緯を重ねる。
「アビドス高等学校からの救援要請による、シャーレ単独の初仕事とのことです」
 リンの目の前の会議机に、画面を点けたままのスマートフォンをそっと置く。群がるように覗き込んだ四人は、モモトークで送られてきた先生のメッセージと、救援を求めるアビドス高校からの手紙を写した画像を見て取ったはずだ。果たせるかな、「……あなたは何をしていたの」という地響きにも似た低い声は、アオイの口から吐き出されたものだった。
「代行がなぜ、あなたをサンクトゥムに置くのではなくシャーレに送り込んだのか。この非常時にあなたを手放したのは、こういう軽挙妄動を防ぐためなのよ!?」
 おいおい、私はこんなところから説明を始めないといけないのか。醒めた視線でアオイを撫でながら、四人へ均等に視線を配り続ける。脂汗さえ浮かべて画面を食い入るように見つめるリンとアユムのふたりをよそに、カヤも真意を問う視線をひたりとユミに向けてきている。「だから報告をしている」という答えは、機先を制するには十分だった。
「私に与えられた仕事は、シャーレと先生の出方を見ること。打って出る前から軽挙妄動と決めつけたのでは、相互理解は図れない」
「理屈で言えばそうでしょうけどね。現に今、シャーレはアビドスに向かっているわ。我々とキーロ……〈カイザーコーポレーション〉との係争地にね。これが軽挙妄動でなくて何だというの」
 青いアシンメトリーの髪を揺らして肩で息をするアオイに、リンとアユムが意外そうな視線をちらと向けていた。同級生の腹芸と思って看過していたが、少しまずいかもしれない。焦点をオパール色の瞳に合わせ直した刹那、「私も聞いておきたいですね」と細められた琥珀色の視線が、ずいとユミの眼前に進み出てきた。
「この連絡がユミさんに入ったのは、シャーレが動き始めてからのことのようですね。ユミさんにお伺いを立てるというよりも、事後報告のような体裁になっています」
 痛いところを痛くなるように突いてくる。我が意を得たり、と頷くアオイをちらりと窺って、カヤは「ご存知のとおり」と続けた。
「シャーレに与えられた権限の特性上、連邦生徒会はシャーレへの指揮権を有していません。独立連邦捜査部と呼ぶくらいですからね。だからこそ、シャーレの活動にあたっては連邦との事前協議が重要になる。連邦の名を冠する組織が、連邦の外交防衛政策に相反する行動をとるようなことがあれば、各校からの眼差しばかりか、将来的な連邦の一体性をも大きく損なうことになるでしょう」
 これは助け舟だ、と直感する。アオイの責めを乗っ取って、こちらが答えやすいような形にしてくれている。その目的が那辺にあるにせよ、乗らない手はない。「つまり」と続いた言葉に、それを確信する。
「シャーレの行動を軽挙妄動としない理由はどこにあるのか」
 連邦の外交防衛政策と、シャーレの行動が軌を一にするものかどうか。美味しいところだけをご相伴に預かるには、先生の動きが独断ではあっても暴走ではないと結論づけなければならない。この人の考えそうなことだ、と、呆れの色を視線に含ませる。「お答えします」という声は、感情をあらかた絞り出されてカラカラになっていた。
「まず、先生が受け取った手紙の内容がひとつ。連邦が把握している情報からも、アビドスに危険が切迫していることは明白です。一方で、依頼内容としては装備弾薬類の支援ですが、その方法や日時、具体的に必要な物資は記載されていません。やり取りに時間を浪費するよりも、現場に入って状況をつぶさに確認してしまったほうが、的確な支援ができる──感情に浮かされたにしては合理的な判断である、というのがひとつ」
 居ても立っても居られなくなったのだろうことは想像に難くないが、そんな先生の実情を知っているのは私だけだ。アドレナリンの苦みが口内に滲む。牽強付会もここまでくればあっぱれだ、と自嘲したくなるのを堪えて、「そして政策面ですが」と続ける。
「〈デザートウォール〉の推移状況を判断するスポッターとして、先生を有効活用できます」
 ぎょっとした四対の目がこちらを向く。「……続けて」と言ったカヤが少し身を乗り出すのを無視して、ユミはひとつ息をつく。
「アビドス高校の小規模さ故、我々はこれまでアビドス高校内部からの視点というものを持たずにいました。情報局や偵察局は独自に自治区内へ協力者を飼っているようですが、それもあくまで大人としての視点に終始しています。アビドスの生徒たちの士気という点では、正直に申せば、当て推量の域を出ないものでした」
 口内がすっかり乾いていた。茶がほしい、と切に願うが、今ここに四人を縫い留めているのは自分だった。
「先生がアビドス生たちの信用を勝ち取れば、見えてくるものもあるでしょう。その場に居なければわからない情報を、信頼できる情報源から入手できる。……アビドス側も、こちらに窮状を伝える手立ては、喉から手が出るほどほしいところでしょうから」
 最後の言葉に乗ってしまった感情は、幸い誰の琴線にも触れなかったらしい。瞼を再び細めたカヤが手近な椅子に腰掛け、顎に細い指を絡める。「……大変、リスクが高い提案と思います」という戸惑うような声は、アユムのものだった。
「先生を〈デザートウォール〉に組み込むリスク自体が計り知れません。そもそも先生がおひとりでアビドスに向かわれたこと自体が高リスクなのに……先生を鉱山のカナリアとして使うなど、あり得ません」
 痛い指摘だった。我々とは異なり、先生は銃弾に弱い……というより、単純に極めて脆弱だ。書類の段ボール三段重ねくらい、中学生でもひょいひょい運べるというのに。「支援というけれど」というアオイの冷淡な声が追い打ちをかけてくる。
「アビドスに提供できる物資は限られる。〈デザートウォール〉云々にかかわらず、単純にアビドス側のマンパワーの問題よ。全員が総掛かりでメンテナンスするわけにはいかない以上、アビドスが維持できるのは車両数台がせいぜい。アビドスが何を要求してくるにせよ、現状で意味のある支援になるか、という観点も必要だと思うわ」
 装備弾薬類はあくまでも現状を維持するためのもので、打破するには別の力がいる。もしそんな装備をシャーレに求めているなら、それはお門違い……ということになる。「そもそも」と切り出したのは、リンだった。
「これら先生の話す情報は、どこから入手されたものなのか、です。桜井行政官、あなたが漏らしたとは思っていませんが、もしそうであるなら──」
「あまり見くびらないでいただきたいですね」
 感情のままに出た発言ではあっても、意外とよく機先を制したものらしい。一斉に口を噤んだ彼女たちが、こちらの話を聞くフェーズに落ち着く。面白そうに出方を伺うカヤの視線まで含めてすべて無視をして、ユミはまずリンに集中する。
「先生の情報源については、正確なところは不明ですが、連邦生徒会長と同等のセキュリティクリアランスが与えられているものと考えています。シャーレオフィスにセントラルネットワークへのアクセス端末がありましたので」
 先生が後生大事に抱えていたタブレット端末を思い出す。連邦生徒会の情報資産管理シールこそ貼っていなかったが、どうにも引っかかる。あれを連邦生徒会長が、リンを経由して先生に手渡したのだ。連邦生徒会長代行をクーリエ代わりにするほどに重要な、謎のタブレット端末。おそらくあれが、セントラルネットワークへ直接続できる端末なのだろう。「次に支援内容だけど」と続けると、アオイが挑戦的な目を向けてくる。
「ひとまずは、装備弾薬類のみの提供になる。連邦からの支援ではなく、シャーレからの支援という建付けになるからね。現在シャーレが提供可能なのは、メジャーな弾薬類と各種応急医療キット、糧食セット、簡易建材パッケージなどなど。戦闘ヘリコプターなんかの攻勢目的装備は、シャーレへの支給が間に合っていない。仮に現地からそのような依頼があっても、私が拒否する」
「口実は?」
「それこそメンテナンスを口実にしてもいいし、所有権書き換えに時間がかかると引き伸ばしてもいい。当局の監査、メーカー発注枠の遅れ、いくらでも引き伸ばせるよ」
 書類による遅滞戦術こそ役人帝国の真骨頂だ。些細な誤字や書き損じを、鬼の首を取ったようにあげつらって突き返す。苦虫を噛み潰したように歪むアオイに苦笑して、「そして、先生のことですが」とアユムに向き直る。
「当然、先生がアビドスに居られることのリスクは、我々としても勘案する必要があります。何しろ相手はカイザーコーポレーション、大人の集団です。汚い手を使うにも衒いがない」
 我が意を得たり、と頷くアユムに、「だからこそ、これは奇貨なのです」と追い被せる。
「カイザーが大人なら、先生も大人です。しかも今のところ、連邦に対して味方として接してくれている。その視座を活かすなら、アビドスの内側に置くのがベストな選択です。計画の一部変更が必要になるとしても、そうするだけの価値がある」
「あり得ません。相手はカイザーだと言ったのはユミさんですよ? ここまでこぎ着けたことだけでも奇跡なのに、ここから計画変更? 不可能です。これ以上のリスクは冒せません」
「リスク云々というなら、〈デザートウォール〉自体が極めて大きなリスクです」
 何を今さら言いやがる。金切り声に近いアユムの反論にぴしゃりと言いつけて、ユミは立ち上がった。
「カイザーPMCをあの砂漠に封じ込め、アビドスの生徒たちを使って消耗させる。〈デザートウォール〉計画の骨子は、煎じ詰めればそれだけです。往年の名門アビドス高校が、私企業ひとつの不当な暴力によって瓦解した……その事実をもってカイザーを掣肘する。『砂の壁』とはよくいったものですが、実態としては肉の壁に近い」
 独白にも似た口調になってしまったのは、未だにその内容が血肉になっていないからだった。納得も承服もできていないし、するつもりもない。「とはいえ」と切り返す舌も、ともすれば絡まってしまいそうになる。
「アビドスの生徒が五人に対して、カイザーPMCは最低でも数個大隊の単位で駐屯しています。正面からぶつかりあったのでは、もとよりアビドスに勝ち目はありません。我々もそれを期待してはいなかった。我々がほしいのは、カイザーがアビドスにかかずらっている『時間』です」
 バツの悪そうな顔をユミのスマートフォンに落とすリン、居直るようにして抗議の表情を向けるアユム。反対はしないと告げているアオイの顔は、納得もしないとばかりに不快げに歪んでいた。
「カイザーの視線がある程度アビドスに向いているうちに、キヴォトスの有力校間でカイザーへの姿勢を取りまとめ、あらゆる分野のリソースを投じてカイザーコーポレーション自体を封じ込める」
 不買運動や指名停止処分ラッシュを引き起こすもよし。連携校の財務当局が一斉にガサ入れをしてもよし。いずれにせよ必要になるのは、アビドス高校に降り掛かった悲劇が悲劇で終わることだ。救いようのない過去の悲劇が、現在の恩讐を生む。
 それでいいのか? 外交防衛政策に限れば、それが最善策ということになる。大のために小を切り捨てるのが公に殉ずる覚悟、それはいい。だが、不要な犠牲を産まないようにすることも覚悟のうちではなかったか。アビドスの犠牲を最小化する術は、本当にないものか。〈デザートウォール〉計画を裁可する連邦安全保障会議にあたって、ユミはそのように食い下がったものだった。
 結果、その食い下がりは意味をなさず、〈デザートウォール〉はアビドス高校と自治区の犠牲をもって進められる運びとなったのだったが、そこにきて生起したのが、先生のアビドス電撃訪問だったのだ。
「あらゆるリソース。確か我々は先頃、超法規的権限を持つ組織に連邦の名を与えましたよね?」
 独立連邦捜査部という名を冠した組織に、文字どおり連邦側として動いてもらう。何もカイザーPMCに積極的に仕掛けるというのではない。先生がアビドスの地にあるというだけでいいのだ。「連邦生徒会長が残した、せっかくの置き土産です」と敢えて気楽を装って嘯く。
「なりふり構っていられないというなら、シャーレも使いましょう。それが結果的に、〈デザートウォール〉失敗のリスクを下げることに繋がると考えます」
 いつの間にか、場の視線はリンに集まっていた。端麗な目元に隈が染み付き、もともと細かった輪郭も痩け始めている。少し荒れているな、と頬に目を留めたユミは、すぅ、と立ち上った息の音に備えた。
「──防衛室長。あなたの意見は」
 およそ感情という色を拭い去ったような声に、その場全員の視線も、自然と下座につくカヤへ向く。「意見、ですか」という場違いに穏やかな声を杖代わりにして、彼女はゆっくりと立ち上がった。
「大枠としては、ユミさんの示した方向性でよいと思いますよ。立っている者は親でも使え、といいますし」
 自分が肯定されている、ということを理解するのに、たっぷり数秒を要した。直球にこちらを肯定しているのに、どこか迂遠な言い回しに聞こえてしまう。「……意外ね」と呟いたのは、アオイだった。
「不確定要素が増えて一番困るのは、矢面に立つ防衛室なのに」
「不確定なら、ひとつでも多くこちらの有利に確定させるだけのことです。実際にエデン条約も、その理屈で交渉開始まで持ち込んだではないですか」
 今回もできますよ、と気軽に放言して、カヤはゆったりとこちらに歩み寄ってくる。「あのときとは状況がまるで違います」と気色ばんだアユムが、その行く手に割って入る。
「エデン条約の交渉開始は、連邦生徒会長が両校に持ちかけたという前提があればこそです。それでも難題だったのに、今回はそれさえない」
「それでも、ここまでこぎ着けた。連邦内でも異論反論かまびすしいところを取りまとめて、ね。これまでの前提は違ったかもしれませんが、軌道に乗ったという事実は事実です」
「その軌道から外れるかもしれない、という話をしているんです。外れるだけならまだいい。盛大に脱線して、エデン条約交渉にまで影響が及べば、我々はいよいよカイザー対策どころではなくなってしまう」
 わからないとは言わせない、と鬼気迫る表情で立ちはだかるアユムに対して、カヤは馬耳東風。どこ吹く風といった風情で、彼女の前に歩みを止める。「では、どうします」と差し出された言葉に毒を感じて、ユミの背筋が音を立てて凍りつく。
「シャーレによるアビドス高校救援はもう始まっていて、それを中断させるには相応の理由づけが必要になるでしょう。ユミさんから上がってきている人定報告からすれば、先生にすべての事情を詳らかにしたところで、アビドス行きを取りやめるとは思えませんね」
「アビドス高校救援は行っていただいて結構です。ただしそれは、あくまでも急場しのぎとしての位置づけに留める。カイザーPMCがいつアビドス自治区の残地域に進駐するかわからない今、先生をあの場に置いておくのは危険すぎます。場合によってはヴァルキューレを送り込んで、強制的にでも先生を連れ戻すことも──」
 もう我慢ならない。「──大人の命ひとつで左右されるほど、アビドスの命は軽いんですか」と吐き捨てると、慄然とした視線が三対、ユミに突き刺さるのがわかった。砂ならぬ肉の壁計画には、最初から今まで文句たっぷりなのだ。ああ、もうたくさんだとも。腹は括った。
「それで事態が決定的にエスカレートすれば、致命的打撃を受けるのはアビドス高校ですよ。リスクを恐れるにしても、近視眼がすぎると思いますがね」
「……被害を最小限に食い止める処置を考えるのが調停室長わたしの仕事です。そこまで悪しざまに言われる筋合いはありません」
「その割に、肉の壁を築くことには抵抗がないようにお見受けしますが? アビドスは物の数に入らないとでも?」
「あの砂漠でカイザーPMCを止めろと言われれば、あるものをあるだけ使う他ない。いみじくも行政官あなたがそうおっしゃっておいででしたが、お忘れですか」
「カイザーを押し留める当初目的が連邦安全保障体制への信用回復にあることを考えれば、アビドスを使い捨てる策は愚策中の愚策です。連邦に対する各校からの信用はいよいよ失墜する。安保会議で何度もご指摘したとおりです。まさか隠し通せるなんて甘っちょろいこと──」
「ふたりともやめなさい!」
 バン、と机を平手で叩いて、リンが立ち上がる。冷や水をぶっかけられたような面持ちで、ユミとアユムは顔を見合わせる。言葉の弾みでとんでもないこと口走ってなかったか、と別の寒気が全身を覆い尽くすのを感じながら、リンの口が再び開くのを見守る。「双方の存念は理解しました」と言外に睨みを利かせて、りゅうとしたリンの長身がこちらに正対した。
「調停室長の指摘する、先生をアビドスに滞在させることの危険性は尤もです」
 小動物くらいなら殺せそうな殺気が、反駁の余地はないと暗に告げていた。
「この報告を受けたとき、私も当初はそれを懸念していました。先生は銃弾ひとつが致命傷に繋がるお身体です。我々が気にも留めていない物事が先生の命を容易に奪うかもしれない。キヴォトスは、先生に優しくない」
 柳眉が寄せられるのがわかる。拭き上げられたメガネ越しに、サファイアの瞳が曇るのも見て取れた。先生がキヴォトスに着任した初日、連邦として先生を真っ先に歓待したのはリン先輩だった。「それでも」と続いた言葉の先も、その初日の交歓が紡ぎだす、ユミにとっては未知のものだった。
「あの日、先生がこの街に来られた日。シャーレビル周辺で発生していた進行型市街地戦の鎮圧に際して、先生は常に最前線で指揮を執っておられました。生徒を盾にするようなこともなく、飛び交う銃弾に逃げ惑うこともなく、です」
 ぴく、と自分の眉が跳ねるのがわかった。最前線で、何の護りもなく? 戦車さえ担ぎ出されてきたあの事件の鎮圧までの経緯は、あらかた書面で報告を受けてはいるが、そんなことは何ひとつ書いていなかった。いや、あの書類の出元も、確かシャーレだったか。
 おい、ちょっと待て。同じ結論に至ったのだろうアユムと、三度視線が交わる。「先生は、キヴォトスを恐れない」と呟いたリンは、さばけたような、諦めたような笑みを浮かべていた。
「あの時わかったのです。先生は、我々生徒のために、文字どおり身をなげうって取り組まれるおつもりなのだと。先生は本当に、キヴォトス全体の先生になられるおつもりなのだと。……私が先生を信用し、信頼する理由など、あの背中だけで十分です」
 異常だ、と切り捨てるのは簡単だった。先生も異常なら、それだけで信用と信頼に値すると結論づけるリンも異常。しかし、私もまた、そんな信頼を暗黙の前提にしていたのではなかったか? まずい方向に向かう思考をねじ伏せるより先に、思考の濁流が計算を寄り切ってしまう。
 先生がアビドスの惨状を見ても尻込みしないと信頼したのではなかったか。先生が生徒の犠牲を容認しないと信頼したのではなかったか。そのような極限状況に置かれた先生を見たわけでもないのに、暗黙裡に、自ずとそれを前提にしてしまっていたのではなかったか。
「私の知る先生は、現状の〈デザートウォール〉を決して容認されません。……行政官も、先生のそういったあり方を目の当たりにしてきたのでしょう?」
 理性が作用するまでに、首が上下に振られていた。
「〈デザートウォール〉が今のまま進行することになれば、我々は先生を敵に回すことになります。それは看過しがたいリスクです。連邦生徒会長代行として容認しない、と言っておきます」
 スイッチを切り替えたように平坦な声に戻ったリンが、淡々と続ける。その視線はこちらを貫いていた。
「桜井行政官。現行のシャーレと先生を一番知悉しているのはあなたです。あなた主導で、〈デザートウォール〉の計画変更を進めなさい」
 急げ、とサファイアが言っていた。先生がアビドスに入り、その兆候を見つけるより先に。アビドスの味方という言葉と、連邦の敵という言葉が、等号で結ばれるより先に。「連邦安全保障会議構成各室は、これを全面的に支援すること」と続けたリンに、居並ぶ各室長が姿勢を正す。
「以上を、代行が発する連邦生徒会長命令として、口頭で発令します。……仕事を始めましょう」
 はい、という答えは、果たして全員が揃ったものだった。