005
思ったより栄えている。駅のホームに降り立った私によぎったのは、そんな月並みな感想だった。
D.U.に用意された自宅から電車を乗り継ぐこと、半日と少し。砂漠を目指した旅の終点は、拍子抜けするほどには整った街並みだった。砂に埋もれた廃墟さながらの光景を想像していた目には、改札越しに見るロータリーの街灯が眩しい。発車アナウンスとともに滑り出していく電車と、階段に消えていく帰宅中らしき乗客たちを見送りながら、私は旅行カバンを肩へ提げ直した。
よく見れば駅舎の柱にはところどころ錆が浮いていて、数年は替えられていないのだろう時刻表が色褪せた姿を晒してもいる。ポスターが貼られていたのだろう掲示板には僅かな切れ端が画鋲とともに残っているだけで、代わりとばかりに落書きまでされている始末だった。改札へ続く階段にも砂が吹き込んでいて、靴底にじゃりじゃりと存在感を訴えてくる。スニーカーでも履いてくるんだったな……。見通しの甘さを内心に罵りながら、滑らないようゆっくりと階段を下る。はるばる共にしてきた切符を自動改札に食わせた私は、くるると鳴いた腹に足を止めた。
そういえば、朝から何も食べていない。かろうじて自販機で飲み物を買い求めたくらいで、慣れない乗り換え続きの中では腰を据えて食事をとる贅沢は望めなかった。駅の外で列をなすタクシーの横を通り抜けた私は、朝昼抜きの恨みを訴える腹を慰めるべく、ロータリー沿いのコンビニに当座の目的地を求めた。
いらっしゃいませ、という間延びした声が店内の空気を緩慢にかき回す。自動ドアから漏れだす空調の冷気には構わず、まずは缶コーヒーをいくつかカゴに放り込んでから、弁当のエリアへ。がらんとした商品棚からおにぎりと惣菜を数点拾い上げる。サラダも食べるべきか? 財布を探る気にはなれず、後ろ髪を引かれながらパンの棚へ向かった。どうせ好んで食べているわけでもない。
それよりも大事なのは明日の朝食だ。アビドス高校まで10キロほど歩いていく予定だから、炭水化物は欠かせない。朝食付きのホテルにすればよかったな、と今さら思いつく己の粗忽さを呪いながら、またぞろ品数の少ない棚を物色する。
クリームパン、あんぱん、コッペパン。お定まりの菓子パンにしても、他にいくつか並ぶ惣菜パンにしても、個性と呼べる個性は見当たらない。若干の砂っぽさに目を瞑れば、店構えも品揃えもシャーレの足元に入る店舗と変わらない。砂漠に置き去りにされた街、キヴォトスから忘れ去られかけた学校。数多の生徒たちが紡いできて、今まさに消え失せんとする夢の跡……。取り残された、という言葉がしっくりくる土地であっても、電気も水道も通い、電車も停まればコンビニにも商品が並ぶ。チョコミントフェアなる珍妙な広告ひとつとっても、キヴォトスの中心街と変わらない絵柄だった。このアビドスを担う生徒たちがどう思っているか、何に悩んでいるかにかかわりなく、経済は経済として息づいているということか。
なら、遠慮なくご相伴に預かるとしよう。抗議の声をあげる腹が手にあんぱんを掴ませた時だった。突然、すぐ横に人の気配が発し、私はぎょっと右を見やった。
黒いヘルメットを被った生徒が、呆気にとられた様子でこちらを凝視していた。私の手元に手を伸ばして、タッチの差で空を掴んでいる。反射率の高いバイザーが顔つきを隠していても、頭ひとつ低い位置から視線が向いていることはわかったし、「あ……」という微かな声もばっちり聞こえていた。
ぶつかる。疲労に呆けた神経が遅すぎる警報を鳴らすまでに、よろめいた赤いバイザーがこちらへ倒れ込んでくる。踏みとどまろうとしてしきれず、重力と慣性に任せた彼女の体重が、中腰になった私をどんと突き飛ばしていた。
受身の猿真似でのけぞった身体がバランスを崩し、咄嗟にずり下がった足がたたらを踏む。取っ掛かりを求めた腕が宙を泳ぐも、その手は未だにあんぱんを掴んでいた。バカ、と悲鳴をあげた背筋がかっと熱くなり、全身の毛穴が開く感覚が総身を走った刹那、鞭のように伸びた黒い腕が、私の二の腕をがっしりと掴みあげた。
「……大丈夫ですか」
難燃性のグローブに包まれた手だった。思ったより力強い握力が、後ろに倒れ込む勢いを完全に殺してくれていた。腕時計の上から掴んでくるもうひとつの手と合わせて、彼女は私の腕を無造作に引っ張る。赤いバイザー越しでは表情も視線も窺えないが、姿勢といい息遣いといい、力んだ様子は微塵もない。文字どおり手繰り寄せるような素振りで、彼女は大の大人ひとりを引き上げてみせたのだった。
先生メモ、キヴォトスの子どもたちと腕相撲をしてはいけない。「ありがとう」と脊髄反射で言葉を出しながら、ようやく暴れ始めた心臓をなだめる。垂れた冷や汗をハンカチで拭うころには、ようやく口元だけは笑顔を保てる程度には回復していた。
「ごめんね、ぶつかっちゃって。避けられたらよかったんだけど」
「いえ。周り見えてなかったのは私のほうですから。……すんません」
気まずそうにヘルメットの頭を垂れながら、弾かれたように手を放す。バツが悪そうに……というより、少し怯えているようにも見えるのは、気のせいだろうか? シワの寄ったジャケットもそのままに、思わず彼女の顔を覗き込む。
今朝方までの投書整理のおかげで、キヴォトスの大人たちの所業はある程度頭に入っている。彼らにどうこう言うつもりはないけれど、倣うつもりも毛頭ない。肩を縮めて凍りつく彼女に、「転ばずに済んで助かったよ」と、あんぱんをそっと差し出す。
「お礼ってわけじゃないけど、よかったらどうぞ」
恩着せがましかっただろうか。言ってから気がついてしまうところは、我ながら相変わらずの粗忽さだった。顔貌を窺わせないバイザー越しであっても、私に向けられた視線が正気を疑うものだということくらいは、さすがに想像がついた。ひとりくらい、子どもに甘い大人がいたっていいだろう。誰にというでもなく内心に言い訳をしながら、あんぱんを差し出す手を所在なく漂わせていた。
他意はないとわかってくれたものか、それとも取り返しがつくうちに逃げようとでも思ったのか。たっぷり数秒は経ったあと、「どうも」というそっけない声とともに、彼女はひったくるようにしてあんぱんを受け取ってくれた。パタパタと靴音がレジに向かうのを聞きながら、私はようやくジャケットに寄ったシワを伸ばす気になった。
いいさ、あんぱんにこだわりがあったわけでもない。気まずさと気恥ずかしさを振り払うように、手近なコッペパンと惣菜パンをカゴに放り込む。
とにかく、転ばなくてよかった。今さらながらほっとする。これで骨を折ったなんてことにもなれば、どやされる程度ではすまない。アビドス行きも中止になって、三角巾とギプスだけを得た初仕事……。浴びせられるだろう冷たい視線を想像して、背筋に寒気が走る。忙しい合間に『お気をつけて』とメッセージをくれたリンにしても、在アビドスの主要な不良集団の動向をまとめてくれたユミにしても、そんな間抜けを笑ってくれはしまい。だから言ったでしょう、という言葉とともに、シャーレで飼い殺しの未来を用意してくれることだろう。傷つけるわけにはいかないという個人的な心配としてではなく、切り札は秘して使うものという組織人の論理として。
彼女が身に帯びるヘルメットと黒いセーラー服は、それだけの意味合いを持っている。手紙を収めた懐に手をやって、レジで所在なさげに佇む彼女の背中をそっと盗み見る。
黒ヘルメットに赤バイザー、ヘルメット団というらしき不良集団のトレードマーク。ユミが送ってくれた資料にも、ヘルメット団がアビドス周辺に集積しつつあるという分析結果が記されていた。その情報源はともかくとして、ユミが自身の職名を記して送ってきたからには、それなりの自信があって寄越したものにちがいない。
不良集団から攻撃を受けているらしいアビドス高校の周辺で、不良集団と同じ格好をした生徒が生活を営んでいる。彼女がアビドスへの攻撃に与していると判断するのは早計としても、少なくともアビドス高校の生徒ではあり得ない。
だからどうということはない。情報と疲労で煮詰まった顔をはたき、気合を入れる。
ヘルメットを被ってアビドスにいるというだけで、私が彼女を咎める筋合いはない。彼女がアビドスを攻撃しているかもしれないからといって、ヘルメット団がキヴォトスの四方でテロまがいの破壊行為を繰り返しているからといって、生徒が生徒であることには一点の曇りもない。目の前で強盗でも始めるというのなら話は別だが、そうでない限り、彼女たちには〈先生〉として向き合いたい。
相手がアビドスだろうとヘルメット団だろうと、所属や過去をもとに表情を変えはしない。罪を憎んで人を憎まず。子どもに御高説を垂れる大人が、相手によって向ける顔を変えて何とする。
お役所仕事と何が違うのか、という条件反射の反論を、関節を鳴らして封じる。通路でぼんやりしているわけにはいかない。考え出すときりがなくなるというのは、この仕事を始めてから得た最大の教訓だった。
踵を返してレジに向かうと、会計を済ませた彼女がちょうど離れるところだった。あんぱんと牛乳を抱えて、ペコリと頭を下げた彼女は、そのままスタコラと足早に店を後にする。歩調がやけに整っているな、と思った頃には、彼女の姿は自動ドアの向こうへ消えていた。
さて、腹ごしらえだ。ついに声高に空腹と安眠を訴え始めた身体をなだめながら、私はレジに品物を置いた。
※
コンビニ袋を携えて、駅前のロータリーから歩くこと数分。目当ての細い路地につながる角を折れて、少女はバイザーを覆う砂をグローブの甲で拭き取った。
砂漠地帯の暮らしで手に負えないものといえば、やはりこの砂だ。拭けばしぶとくへばりつき、叩けば舞い上がって、こすれば擦り傷の出来上がり。風に乗ってどこにでも入り込み、水分を吸うと粘り気を増して貼りつく。うっかり汗をかこうものなら最後、うっすらこびりつく泥パックの一丁あがりだ。案の定こびりついた砂を手近な壁になすりつけて、少女は路地の奥へと足を踏み入れた。
表通りの喧騒はすでに遠く、沈黙だけが路地に幅を利かせている。メンテナンスされることもなく垂れ下がる電線。かろうじて室外機とわかる残骸は、経年劣化に負けてビル壁から落ちたか、それとも金屑目当てのごろつきに狩られたか。割れ残った街灯も光を宿すことはなく、アスファルトとも砂ともつかぬ地面に月の影を落としている。
鉄道会社が整備の手を入れ、コンビニが営める程度の文明を維持している駅前とは異なり、こちらには人が足を踏み入れることさえ珍しい。手つかずの荒廃が横たわるアビドスの路地裏は、彼女のような者が逃げ場を求めるにはうってつけの場所だった。
駅前からこっち、ずっと彼女を取り巻いていた隠微な気配たちにも、危険を冒してここに踏み込んでこないだけの理性はあった。入れ代わり立ち代わり、アビドスという寂れた地方都市に溶け込んでこちらを視察下に置いていた視線の主たちは、彼女をどうこうするためにこの街にいるのではない。彼女が逃れた視線の網は、たったひとりの〈大人〉の動向を細大漏らさず把握しておくために張り巡らされたものだった。
彼女がコンビニでぶつかった〈大人〉。こちらの不始末を咎めもせず、パンを譲ってさえくれた〈大人〉。キヴォトスの主要校に揃って泡を食わせ、黒ではない程度の監視体制を敷かせるに至った〈大人〉。独立連邦捜査部とやらからやってきた、先生と名乗っているらしいその大人が、このアビドスをスパイ・サミットの会場に仕立て上げた意図せぬ立役者であるらしい。
その先生とやらに接触して直接安全を確認し、ついでに『組織』の介在を監視者たちに知らしめる──それが彼女に与えられた仕事だった。
視察下に置いた対象へ突如接触した、カタギではあり得ない第三者を、監視者たちが放っておくわけがない。事と次第によっては一戦交えるのも已む無しと覚悟していたが、どうやら監視者とその背後にいる者たちは、いずれも彼女の所属を誤解なく汲み取ってくれたものらしい。グレーゾーンにいる身がぶつかり合うには荷が勝ちすぎると思えばこそ、砂へ還りかかったこの路地に踏み込まず、本業に戻ってくれた。
幸いと取るか先送りと取るかは別として、目先の面倒を避けられたのは嬉しい。尾行者を連れて帰る趣味はないし、尾行点検も手短に済ませたいというのが、ひと仕事終えた彼女の偽らざる本音だった。そうでなければ、あんぱんだっておちおち食べられやしない。人の気配のない路地を入り組ませて入念に歩くことしばらく、彼女はようやく自身が拠点にする建物を視界に収めた。
6階建てのマンション。大半の窓ガラスはすでに抜け落ち、周囲と変わらぬ廃墟ぶりを呈していたが、少女は構わずエントランスへ足を進めた。粉微塵にされたオートロックのガラスを慣れた足取りで避け、止まったままのエレベーターには目もくれず、奥にある鉄製のドアへ。軋まぬよう慎重にそれを押し開け、吹き抜けとそこに作り付けられた階段を見上げる。ヘルメットの中でため息をひとつついてから、少女は一段目に足をかけた。
かつてアビドスがキヴォトスで最大の勢力を誇っていた頃、この一帯はベッドタウンとして、数十万からの人口をアビドス各所へ送り出していた。中心街の巨大なキャンパスに通う学生ばかりではなく、マンモス校にサービスを供給する労働者にも住まう場所は必要であり、その需要を当て込んで造成されたニュータウンの一角にこのマンションはあった。
だが、街の経済そのものが崩れた今となっては、需要も供給も砂の底。中心街はキャンパスごと砂嵐に埋もれ、労働者は働き口ごとアビドスの外に流出して久しい。居住者どころか管理会社すら逐電したこの建物は、しかし砂に包まれてなお、律義にマンションの体裁を保ち続けていた。
目についても、誰も意識しない場所。少女と少女の所属する『組織』にとって、これほど都合の良い物件はない。階段を4階分上った少女は、そこだけ微かに灯りを漏らした戸の前まで足を進めた。
符丁代わりに叩いたリズムに、間を置かず別の調子が返ってくる。センサーを張り巡らせてはいても、こうした単純な手で二重三重に確認を重ねるのは、もはや習い性だった。敵地に拠点を設けると、こういった面倒な手続きが要る。安全の冗長化というだけではない、拠点を安心して寛げる場所にするための儀式。皆が守っているうちは安全だ、と信じるためのプロトコル。その場に応じて感情を整えられるなら、鰯の頭だろうが立派に武器になる。実際ノックのたびに身体から強張りが抜けていくのだから、これは使えるセキュリティなのだ。
感情の鍵も無事に解かれたところで、「おかえり」と迎える声が戸を内側から開く。こうして、少女──籾山エリはようやく拠点へ帰り着いた。「ただいま」という声とともに、エリは家族向けの広い土間へ足を踏み入れた。
「うわ、ドロドロ。そんな砂吹いてた?」
「ひどいもんだよ、そりゃ街も埋まるわって」
玄関の戸を閉めるなり、ヘルメットをむしり取ってセーラー服を脱ぎ捨てる。砂を撒き散らさないよう一応配慮はしていても、そこに制服を大事にしようという発想はない。それは、エリから受け取った小銃から弾倉を抜き取り、流れる所作で薬室も空にした羽角ツバサにしても同じことだった。「シャワー浴びてきちゃいな」と顎で脱衣室を示されたのを幸いに、エリはいそいそと下着も脱ぎにかかった。
廃墟同然なのは外界に面した共用部だけで、居室部分は手を入れればまだまだ使える。エリたちの所属する『組織』はキヴォトス中からその手の物件を確保していて、このマンションの一室もそこから融通されたものだった。電気も水道も引き込まれ、複数のダミー企業を経由して使用料さえ支払われている。住処としては若干くたびれているが、路地裏に段ボールで雨をしのぐよりはよっぽどマシと言えた。
仕事明けにシャワーを浴びられるありがたさときたら。蛇口を捻って真水──それも清潔なお湯が出るというのは、拠点なしにはあり得ない贅沢だ。ガシガシと全身の砂を洗い流したエリは、準備よく並べられたシャンプーたちでひと通り身体を清めることにした。
『着替えとタオル置いとくからね』
「ありがと、ツバちゃん」
気の利く同期は、エリからの報告を受けるまでが仕事。ゆっくりシャワーを楽しむのは明日以降でいい。いそいそと泡を流し落としたエリは、バスタオルで拭うのもそこそこに、用意されたTシャツとジャージに袖を通した。少しブカブカな、あたしの好みに合わせたサイズ。どこまでも気の利いた同期に内心で手を合わせながら、エリは洗面台に置いたインサイドホルスターを手に取る。
どれだけ変装を重ねても、この子だけは手放したことがない。習い性になった手つきで細工を探りながら、同時に目も走らせていく。弾倉、薬室、照準。引き金にもトラップはなし。雷管もきっちり銃弾の尻に収まっていた。ホルスターに拳銃を収め直して、手早く腰へ巻く。これでようやく、ジャージのゴムはぴったりになる。あるべき場所に収まった感覚に気をよくして、エリは鏡に自分の半身を向けた。
抜いて、構えて、戻す。銃口を戸に向けて数回繰り返し、シャワーで火照った身体を安堵させていく。馴染んだ位置にホルスターがあり、覚え込んだとおりの重さを両手に受け止め、親しんだポイントに照星がある。脱衣室という狭い空間でも、腕が何かに当たるということはない。暗く狭い環境で銃器を取り回す技術は、『組織』ではルーキーのうちに身体に叩き込まれるもので、エリが得意とする動きのひとつでもあった。
マグチェンジ、射撃姿勢復帰。脱衣室の引き戸に敵の幻影を見て取り、トリガーに指をかけて神経をなだめていく。問題なし、いつもどおりだ……。神経が緩んだその一瞬を狙いすましたかのように、その戸が音を立てて開かれた。
「ねえ、袋置きっぱなしだけど──」
射線の先にあった幻影が、ツバサの頭とぴたりと重なった。しまった、と内心に絶叫した刹那、銃口を覗き込む羽目になったツバサのオレンジ色の頭が、音もなく沈み込んだ。彼女の手がぶれたのを感じ取ったエリは、身を翻すために肩を思いきり後ろへ引いていたが、ツバサの銃口がこちらを捉えるほうが遥かに早い。待った、という声が声になるまでに、銃口が暴力的な光を帯び、視界そのものが真っ白く染め上げられていた。
額から神経に迸る激痛、銃弾に突き飛ばされてバランスを崩した身体。がくん、と頭が力なく天井を向き、身体がすとんと垂直に落ちるまでに、エリは反射をねじ伏せて引き金から指を離していた。弾倉をリリース、銃把を放して、トリガーセーフを支点に銃口を床へ。だらんと無力化した拳銃が床に落ち、後を追うように崩れ落ちたエリの身体をやっと見て取ったものか、目を剥いたツバサが「──アホか!」と怒声を張り上げた。
「チャカぶん回してんじゃないわよ!」
「ドタマぶち込んどいてそれ言うかな!?」
二発目もぶち込みかねない勢いの殺気を風と受け流しつつ、かろうじて怒鳴り声には反駁する。泣く子も黙る籾山エリ様が、同期に撃たれ悶絶する無様ときたら、あまり世間様にはお見せできたものではない。「まったく……!」と声を荒げたツバサが手にした銃をホルスターに収めるまでに、じんじん痛む額を涙目とともに擦りながら、エリはなんとか上半身を床に起こした。
扁平にマッシュルーミングしたホローポイント弾が、エリの拳銃の横で奇妙な形を晒していた。捨てとけ。憤懣やる方ない表情でそれだけ示して、ツバサはぴしゃりと戸を閉めてしまった。
「自分が撃ったくせに……」
『なんか言った!?』
地獄耳め。拾い上げた弾倉を自分の銃に戻しながら、なんにも、と大声で返す。ドスドスと居間のほうへ足音が遠ざかっていくのが返事代わりだった。今度は舌打ちに留めて、エリはまだほんのり熱い潰れた銃弾を拾い上げた。
こっちは拳銃を抜いていて、ツバサに──事故とはいえ──向けていたのに、撃ったのはツバサのほうが速かった。戸を開けた、片手が埋まっていたビハインドを一顧だにせず、あの一瞬で銃に手をかけ、抜き、撃ったのだ。
こと早撃ちにかけては、『組織』でも彼女の右に出る者はいない。キヴォトス全土でも、彼女に比肩する生徒がどれだけいるものか。少なくとも自分は、今後の学生生活すべてを費やしても、早撃ちで彼女に勝てる気はしない。それを痛烈に自覚させられたが故の舌打ちだった。
ついでに言えば喧嘩っ早さもだ。冷ました銃弾を適当にゴミ箱に捨てて、バスタオル片手に脱衣室から居間にそっと入り込む。ツバサがキッチンにいるとわかるや否や、エリは床の軋みひとつ立てずに居間を横切り、ローテーブルに突っ伏した別の同期の影へ飛び込んだ。この気配の遮断ばかりは、この拠点にいる誰にも負けるつもりはない。
「お、なになに、どした」
いらん反応を示した同期に、ツバサの視線がぐりんとこちらを向く。「チャカぶん回してやがったのよコイツ」という低い声には、少々茶目っ気が混じり込んでいた。
「サイドアームなんだから抜き心地大事じゃん……」
「ドアに向けるなってのよ、任務中だって忘れてないでしょうね」
「その任務から戻ってきたばっかりなんですけど……?」
「それはご苦労さまだけどね。心臓に悪いったらないわ」
ぷりぷりと怒った様子のツバサが、キッチンから居間に戻ってくる。怪訝な表情から一転、小幡コノハは「お熱いことで」とケラケラ笑い始めた。ローテーブルに人数分のココアを並べたツバサは、手にしたコンビニ袋をかさかさと振って示した。
「置きっぱなしだったわよ、これ」
誘うように袋を突き出したツバサに、のこのことコノハの背中から這い出る。ごめん、という声に頷きが返って、それでおしまい。手渡された袋はどこか硝煙の臭いがした。ありがと、と卓につくエリを、コノハが軽く肘で突く。
「ボディーガード代、貸しイチね」
「ツケから引いとくわ」
ケチ、とコノハはスマホに目を戻しながら、ツバサのいれたココアを口に含む。同じくマグカップを手に取りながら、エリは肩の力が心底抜けるのを自覚した。いつもより甘い気がするのは、疲れているからだろうか。
拠点を帰る場所たらしめているのは、案外こういうところなのだろう。おかえり、と出迎えてくれる仲間がいるというだけで、同じ任務でも張り合いが違う。この拠点を用意した『組織』の意図はどうあれ、エリはそのつもりで拠点を扱っていたし、ツバサとコノハ、そして奥の部屋で仕事中のもうひとりもまた、そのはずだった。
『組織』は、そういう意味では帰る場所たり得ない。報告をし、命令を受け、補給を受け取るために顔を出す場所。そこから始まる人間関係もあるし、培われるものもあると知ってはいても、いずれ離れる場所という感覚は終始頭にあった。
連邦生徒会長の権限と命令のもとに、あらゆる自治区への介入を許された精鋭中の精鋭。キヴォトス中から集められた一角の者たちを束ね、潤沢な資金と環境で育て、他を圧倒する先進装備で固めたエキスパートの集団。他にも連邦生徒会長の懐刀だの、キヴォトス最後の砦だの……揶揄や皮肉交じりの別名には事欠かないが、『組織』──SRT特殊学園の内情を知るエリにとっては、買いかぶりという言葉でも足りない。その呼び方に込められた意図が憧憬であれ反感であれ、座りの悪さばかりが先に立つ言葉の羅列には違いなかった。
とはいえ、懐刀という言葉自体は、事実を端的に言い表していると思う。連邦生徒会長が振り下ろす、SRTという名の短刀。刀は物を考えない。割り切りもここまでくればあっぱれで、情報や兵站といった基本機能さえも連邦生徒会に依存している実情も含めて、持ち主からの手入れを必要とする刀さながらではあった。
それはそれでいい。振り回されっぱなしの日常であっても、そこに納得を見出すことはできる。拠点と仲間が共にあり、自らの能力をフルに発揮して充実を得られるなら、エリにとって不足はない。
懐刀の持ち主が失踪し、SRT全体が鞘に収められっぱなしになった今、こうして外に出ていられるだけで幸運……という言い方もある。もうひとくちココアを啜り、ちょっと濃いかな、とコンビニ袋をまさぐる。「私も」と差し出されたマグカップを押しのけて、エリは結露の浮き始めた牛乳パックを机に置いた。
「自分で買ってきな」
「ケチ」
口を尖らせるコノハを無視して、牛乳をココアに少し注ぐ。無言で突き出されたマグカップは、いつの間にかふたつに増えていた。にへら、と笑うふたりにとびきりの渋面を向けてから、エリはカップぎりぎりまで牛乳を注いでやった。「よろしい」と満足気にマグを傾けるツバサと、その隣で「多いって……」とぶうたれるコノハ。心底ムカつく光景だが、不満の大合唱が始まるよりずっといい。すっかり軽くなってしまった牛乳パックを抱えて、エリは席を立った。
もともと4人で分けるつもりではいたが、思ったより注いでしまったらしい。明日にはもう1回買いに行かなければ……。冷蔵庫に牛乳を収めて、エリは「ミズキは?」と切り出した。
魚見ミズキ。今次作戦の現地指揮官にして、この拠点に収まる小隊の長。夜に溶け込むフクロウ──OWLを冠する我らが小隊の長は、奥の部屋に巣を作ったきり出てこない。「お電話中」とそこに繋がる襖を肩越しに示したコノハに、ツバサも眉だけで器用に呆れてみせていた。
「後追いでいろいろ情報が出てきたみたいでね。いつものことだけど」
コンビニ袋の底に突っ込まれた手をぴしゃりと叩いて、コノハからあんぱんを奪い返す。「出てくるだけ誠意だよ」という言葉の勢いで包装を破き、そのままあんぱんにかぶりつくと、彼女は悲しそうな声とともに天板へ突っ伏してしまった。
「つぶあん?」
「こしあん」
あっそ、と興味をなくしたツバサをよそに、モソモソとあんぱんを口に押し込んでいく。いつもと同じ、どのエンジェル24にも並ぶ大量生産品の味だ。のっぺりした甘さを乾燥したパン生地に包んだ、うまいとも不味いともつかぬ味。最後のひと欠を機械的に口へ放り込み、パサつきをココアで飲み下したエリは、どことなく名残惜しい感覚が口元に残っていることに気がついた。
親切な大人という絶滅危惧種、キヴォトス中の情報部に激震を走らせた相手との縁と思うからか。あの数秒の交錯で人柄がわかるとは言わないが、舌打ちもなければ睨まれもしないというのは、意外という言葉では陳腐にすぎると思う。ヘルメットがなければ、あの先生とやらに自分の当惑した顔をばっちりお見せすることになっていただろう。挙げ句、あんぱんを譲られるに至っては……。断るに断れず、というのは言い訳で、善意に免疫がなかったというほうが正しい。こうしてあの大人のことを考えてしまうこと自体、大人の善意に不慣れである証のように思えた。
詮無い物思いを割り切るには、ちょっとしたコツがいる。身体を動かすのだ。「ごちそうさまでした」と袋を丸めて、襖の横に置かれたゴミ箱に放る。襖が音もなく開かれたのは、ちょうど放物線がゴミ箱を揺らした瞬間だった。
「……おかえり」
朴訥とした声だった。眠たげな目を一瞬足元のゴミ箱にやり、気まずげに固まるエリを見やる。そよとも表情を動かさず、机までトコトコとやってきた彼女は、「もらうぞ」とエリからマグカップを奪い取り、迷いなくそれを飲み干していた。
ぽかん、という音が脳裏に冴え返る。何をしているんだ、この隊長さんは。たっぷり数秒は凍りついたエリは、それが解けたと自覚するより先に「ちょっと!?」とミズキの肩を掴んでいた。
「……なんだ」
「なんだじゃないでしょ! ゴミ投げちゃったのは悪かったけどさ!」
半ば自動で迸った大声に、ミズキはうるさそうに顔をしかめる。艶のある黒髪を揺らして「ゴミ?」と端的な声だけを返すミズキは、エリの頭越しにツバサへマグカップを渡しているらしかった。
こういう奴だ、と何度目かの──もう数えることも諦めたため息を漏らす。クールで怜悧なキャリアウーマンみたいな外見をしておいて、時折こういった素っ頓狂な天然ぶりを見せつけてくる。なまじ内心が表情に出てこないものだから、それが素なのか演技なのかも判然としない。一緒に小隊をやってきて一年と少し、おそらく前者なのだろうことはわかっても、確証は持てずにいる。
そう、一年だ。小隊として拠点を囲むということは、このド天然に振り回されるということを意味する。笑いを噛み殺しきれていないツバサに、突っ伏した天板ごと肩を揺らすコノハ。いずれも純粋に面白がりながら、自分が巻き込まれずに済んだという安堵もあるのだろう。そりゃ面白い余興でしょうね、とぶんむくれたエリが肩から手を放すと、ミズキは「よくわからんが」とエリのワインレッドの頭に手を乗せてきた。
「お疲れ」
労いの眼差しに、怒鳴り散らすも振り払うもできず、撫でられるに任せるしかない。憤懣やるかたないとはこのことか、と唸り声を上げながら、薮睨みを残りふたりにばら撒いていく。とうとう決壊したツバサがキッチンに崩れ落ち、コノハが声を上げて大爆笑するのを睨み据えながら、エリはひたすら時が過ぎるのを待ち続けた。
SRTのことも先生のことも、気にし続ける余裕はこれっぽっちもなかった。
※
「さて」
笑いを鎮め、あるいは曲げたへそを戻すことしばらく。ツバサの新しく入れてくれたココアをひとくち啜って、ミズキがおもむろに仕事向きの口を開き始めた。
「OWL4、偵察の結果を報告してくれ」
やや面長の顔に表情らしき色はない。こちらも胸中から能面を引っ張りだして、「了解」と被ってみせる。内心はともかく、表情を取り繕うのは大得意だった。
「サブジェクトとの接触は成功。駅周辺に尾行チーム多数。顔見知りがふたりいた、正義実現委員会と保安部現地情報隊」
事実だけを淡々と、私見は聞かれるまで待つ。報告要領に忠実な言葉は、得てして紋切り型になりがちだったが、そこに芸を求めるのはだいぶ前にやめている。
サブジェクトと呼ばれる大人と、偶然を装って接触すること。今夜エリに任された仕事は、煎じ詰めればそれだけだった。現地住民に不審がられない程度に駅前をぶらつき、コンビニで買い物をし、ついでにサブジェクトと接触する。OWL小隊にあって偵察兵を任されるエリにとっては、楽でもあり得意でもある部類の仕事だった。
直接警護として先生に張り付くのと同時に、先生自身の動向を監視するアドレス任務。アビドスを取り囲む監視の目に、SRTが介入に乗り出したと知らしめる宣伝工作。エリの所作に見え隠れする特殊な雰囲気のひとつひとつが、尾行チームとその背後に控える各校当局へのメッセージになるというわけだ。
連邦生徒会がご執心の大人が動くとなれば、三大校が見えざる手を伸ばしてくるのは火を見るより明らかだった。先手を取る必要があるという認識は連邦側も同じだったらしく、こうしてエリがひと芝居打つ羽目にもなったのだが、所詮は得意な作業を淡々とこなすだけのことだ。「抜け目ないねー」「さすが三大校」と気楽な声をあげるツバサとコノハにしても、意外という様子は微塵もない。予定調和の作業を、予定どおりにこなす。仕事とはそういうものだと、エリは随分前に学んでいた。
「情報部は?」
ミズキの問いかけも予想の範疇だ。「顔なじみはいなかったけどね」と答えながら、脳裏にざっと現地の印象を呼び起こしてみる。
いかにゲヘナにツノの生えた生徒が多いとはいえ、情報部にあって外勤任務に就く者の中には、ツノのない生徒も揃えているはずだ。単に見た目だけで判断しきれるほど、この稼業は甘くない。それでも、所属は不明ながらも、こちらを伺うような気配は何人かから感じ取れていたように思う。あの中にいたかどうかはさておき、ゲヘナがサブジェクトとエリへ眼差しを向けていたことは間違いない。
「いないわけないでしょ、あのゲヘナが」
「そうだろうな。我らがスポンサーも同じ意見だった」
後を引き取るようにして、ミズキがぬけぬけと語る。普段なら半眼を向けるところだが、〈スポンサー〉という単語の意味するところを思えば、真面目な隊員を続けざるを得ない。渋々だ、と誰にというでもなく念を押しながら、エリは閉じた口ごと視線をミズキに向けた。
「情報局の見立てでは、三大校がアビドスに人員を派遣してきているのは確定と見ていいらしい。スポンサーも伝手を辿って、同じ結論を得たそうだ」
伝手、ね。糸を手繰る女郎蜘蛛を想起して、思わず身震いする。自分もその糸、あるいはそこにかかった獲物かもしれない。三大校に巣を張り巡らせる〈スポンサー〉は、このアビドスの地で繰り広げられる陰惨な工作合戦の図をあらかた把握しているのだろう。
貸し借りを積み重ねた果ての相互依存関係があればこそ、安心して諜報合戦もできるということか。
「あんなに知らん顔してた情報局が、どういう風の吹き回しで?」
「上からの圧力だろう。いつものことだ」
コノハの疑問に嘆息するでもなく、ミズキはそう切って捨てる。情報局の下働きに費やした一年で得たものは、この手の役人根性に腹を立てても始まらないという身も蓋もない事実だった。
組織という装置に組み込まれ、歯車としての立身出世を第一にする役人根性から考えれば、落ち目も落ち目の自治区ひとつのために出世をふいにするリスクは冒せない。その発想が染み付いた組織は、どこも情報を隠し持っておき、いざとなればその情報ごと弱みを押し付ける。三大校が揃って介入してくるような事案など悪夢以外の何物でもなく、責任逃れのついでにライバルを蹴落とすくらいのことはしてみせなければ、自分たちがその悪夢に食い殺される……。サンクトゥムタワーに詰める役人たちがいかにも考えそうなことだった。
「だが、今回はスポンサーががっちり食い込んでる。どこをどう詐欺ったか知らないが、アイツのやることだ。信頼していい」
その発想を誰よりも知悉しているからこそ、〈スポンサー〉はOWLをここに送り込むことができた。第二作戦学群OWL小隊は、独立連邦捜査部顧問の身辺を警護するとともに、アビドス自治区における独立連邦捜査部の活動を支援せよ──。情報局特別活動部から下りてきた物騒な命令書には、ご丁寧に連邦生徒会長代行のサインが記されてもいた。
『秘密裏に』、『手段を問わず』、『障害はこれを排除せよ』。暗黙の二文字で秘された文言を正しく読み取れる人間でなければ、この仕事は務まらない。連邦生徒会長の存否はどうあれ、SRTにしかできない仕事というものは間違いなく存在する。
切り札は秘して使うものという原則は、切り札は使うためにあるという単純な論理の上に成り立つ。〈スポンサー〉──桜井ユミは、連邦生徒会長専権事項であるSRT特殊学園への直接行動命令権を、少なくとも一部は掌握したらしい。
アイツ、珍しく燃えてるんじゃない? 知らず吊り上がる口の端を抑え込みながら、「どこまでやっていい?」と端的に問う。
「交戦規則に変更はない。いくらでも、どこまでもだ」
「責任重大じゃん? トカゲはゴメンだよ」
「そうなれば、交戦相手がサブジェクトとスポンサーに切り替わるだけのことだ」
OWLの能力をもってすれば、非武装の大人ひとりを殺処分する程度造作もない。事故に見せかけた殺し方というものはある。ふたつみっつは思い浮かべたところで、エリははたと思い留まった。
OWLの編成自体に大きく関わったスポンサーであるばかりか、窮地のところを救ってくれた相手であるユミを、殺す? あり得ない、という結論に落ち着くより先に、いつの間にか乗り出していた身体を自覚し、「ごめん」と縮めた肩を引き起こした。
どうやら、いつの間にか実戦モードに切り替わっていたようだ。SRTの活動が凍結されてから数週間、騙し騙しでできる訓練は続けていても、実戦に勝るものはないということらしい。引き金を引くこともなく、相手を関節で転がすこともない暢気な仕事ではあっても、数週間の仕事にはちがいない。刺激に飢えた神経がそうさせたという意味では、あたしもまた燃えているということか。
そうでなければ、風呂場で拳銃を振り回したりはしないし、一足飛びに士気に障る話をふっかけもしない。修行が足りないな。あらためて自分に活を入れながら、「続けるぞ」というミズキの平坦な声に耳を傾ける。
「これは連邦生徒会認可の正式な作戦だが、表向きには、我々は防衛室から委託を受けた軍事代執行者という位置づけになる。本作戦の指揮階梯にSRT特殊学園は介在しない」
OWL小隊のメンバーが捕らえられ、あるいは殺されても、当局は一切関知しない。これもおおよそいつもどおりではあったが、「連邦特権による保護は受けられないということだ」と念を押すミズキには、その僅かな違いが重要なのだろう。
正規作戦に従事するSRT特殊学園の生徒には、通常、いかなる自治区においても連邦外交官に準じた不逮捕特権が適用される。連邦生徒会長の職権を代行して作戦を遂行するという建付けがあるためで、その性質上、SRTの正規作戦には連邦生徒会長による明示的な認可を必要とする。
そしてOWL小隊は今、まさにその逆を命じられている。連邦生徒会長の認可もなければ、本校の支援も受けられない非正規作戦。僅かな失敗ひとつでSRTの身分を奪われ、前科者として放学さえされてしまうだろう綱渡りだ。命じる側はいざ知らず、命じられる側のミズキがナーバスになるのも当然の無茶ではあった。
リスク、綱渡り、無茶──要は、いつもどおりだ。SRTとは名ばかり、情報局の下働きで実績を積んできたOWL小隊は、常にトカゲの尻尾を自認してきた。最後の最後に連邦生徒会長というフェイルセーフはあっても、それに頼るは特殊戦の名折れという気風もあれば、下働きには下働きなりの培ってきた信頼もある。名が折れ信頼を失えば、特殊戦で食っていく目はない。そういう意味では、エリ自身にかかるプレッシャーは変わらない。やる仕事も変わらないとくれば、今さら何を気負うのか。
あたしたちを気負ってくれるミズキのためにも、あたしたちは、特殊戦のすべきことをするだけだ。頼もしかろう、という眼光をにやりと光らせて、ミズキを眇める。にんまりと見つめるコノハ、呆れたように半眼で頬杖をつくツバサのふたりも、殊更に緊張した様子はない。「……ユミが気にしていたからな」とバツの悪い顔で言い訳がましく呟いたのも一瞬、鉄面皮を被り直したミズキは、何事もなかったかのように続けた。
「私たちを使い捨てる気はないらしい。気には留めておいてくれ」
ユミを友人と思うからこそ、どうしても言葉にしておきたかった。らしくない気の回しようも、底を透かせば可愛いものだ。にやにやと視線で応じる三人を分厚い面の皮で受け止めて、我らが隊長は「報告を続けてくれ」と厚顔をこちらに向けてくる。
照れ隠しもここまでくれば天晴れだ。ココアをひとくち啜り、「位置探知装置を仕込んだ」と指でVサインを作る。
「袖と靴に、ひとつずつ。当たり屋で仕掛けたから、小粒だけどね。12時間保てばいい方かな」
「上出来だ」
手放しで褒めて寄越したミズキに、思わず眉を寄せる。次からは3つ仕込めとか、気づかれるリスクを犯すなとか、いろいろ無理難題を言われると思ってたんだけど……。不満さえ浮かんだエリの顔を見て取ってか、ミズキが「夜中の行動ログさえ掴めればいい」と言葉を付け足していく。
「明日、サブジェクトはアビドス高等学校に向かう。あの辺りはまだアビドス自治区だからな」
テリトリー外だ、と言外に言い含めて、ミズキもマグカップを傾けた。SRTでない以上、越境作戦はできない。少なくとも今のところ、連邦生徒会はそこまで腹を括れていないということだった。
ユミがそこを押し切るには、押し切るだけの材料が必要になる。それを集めるための手足がOWLであるという意味では、今OWLに打てる手はないということだ。「じゃあ、しばらくは暇だね」と先回りしたように、コノハが気楽に笑う。
「アビドス高校の救援ってことは、サブジェクトはしばらくあっちにいるんでしょ? 情報局も目くじら立ててることだし、私たちの仕事ないじゃん」
仕事中は休んでナンボ、と公言して憚らないマイペース女は、ここにもあれこれ暇つぶし用具を持ってきているのだろう。締まり屋のツバサが焼きを入れるより早く、「もちろん、いろいろと雑務がある」という取り付く島もない声が、コノハを袈裟斬りにしてしまった。
「周辺一帯のヘルメット団と、彼女らに装備弾薬を供給しているカイザー関連会社の動向。三大校や他の学校が送り込んでくる要員たちとは、できるだけリレーションを作っておきたい。私たちは4人で、あちらは大所帯だからな」
「悪人に休みなし、ね」
うんざりという顔を隠さないコノハを、ツバサがニタニタと言葉で突っついている。拠点周辺とロケーターの監視にそれぞれひとりずつ割かれると考えれば、残りふたりでそれらを回すしかない。隊長として後方に控えるミズキが拠点を、電子戦担当のツバサがロケーターを担当するとなれば、外を歩き回るのは……。
「OWL3は各校要員と接触し、リレーションを速やかに構築しろ。上役は出すな、現場間に留めろ。渡していい情報は、後で共有しておく」
しおしおと机にうなだれたコノハは、それでもかろうじて「はい」と返す声を出せている。面倒くさがりを絵に描いたような彼女は、これでいて仕事はきっちりこなすのだ。
それを知悉する隊長は、わざわざコノハに発破をかけたりはしない。それは委員長役のツバサも同じくで、額を机につけたコノハをよそに、楚々とココアを味わっている。コノハの働きで急場をしのいだ経験も数知れず、形ばかりのイヤイヤを受け流すのも度量ということらしい。
銃口も度量で笑ってくれればいいものを、とぶり返した不満は、「OWL4は」という声ひとつでバチンと消えてなくなった。
「ヘルメット団の情報収集にあたれ。方法は任せる。ユミとのダイレクトラインも、後で渡しておく」
場合によっては必要になる……いや、直接報告を上げるような事態になるということか。事によっては再びヘルメットを被り、組織内部からの調査も必要になるかもしれない。いちいち隊長にお伺いを立てる暇があるとは思えないし、生の情報を求めているのは隊長の上に控えるユミだ。
サンクトゥムタワーの快適な執務室から事態を差配するには、現地から得られる忖度抜きの情報が必要。ユミにはたびたび、現場の人間が無条件にイラつきそうなことを、悪びれもせずに口にする悪癖がある。好かれ嫌われのバランスを取っているつもりなのか、現場で血を流せない身分になった自分の罪悪感をなだめるためなのか。どちらにせよ、ユミの捨て鉢とさえ思える仕事ぶりを一目見れば、心にも無いことを言っているのだということはすぐにわかるというものだ。
それで少しでも気が楽になるなら、言わせてやるのも友達としての甲斐性としたものだろう。相変わらずあくせく働いているのだろう彼女を思い起こし、どこまで読んでるんだか、と内心で脳天にチョップを入れる。少しは楽させてあげるよ、と胸を張って、「OK、隊長」と少し声も張る。
助かるよ、とぬけぬけと言うだろう友を、それをバネにさらに無茶をするのだろう友を思えば、砂にまみれるくらいは甘受してやろう。のうのうと特殊戦でいられる今を作ってくれた友を助けると思えば、これくらい何ともない。げんなりと丸まったコノハの背中をバシンと叩いて、エリはココアを飲み干した。